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We♥MUSIC 2 2004 7/21
   

 千葉県佐倉市が5月、市制50周年記念に同市出身のBUMP OF CHICKENを呼んで、市民体育館にて無料ライブを開催したところ、演奏中に床を約6メートル四方にわたり最大30センチ陥没させたそうな。
 観客のみんなが音楽に合わせて飛び跳ねた上に、大音量の振動波が床に激しく共鳴して起こしたこの新たな解体作業。
 前に、観客の縦ノリの振動で大阪ドーム周辺の地域が揺れていると書いたことがあったが、そりゃ床ぐらい抜けるよね。
 音楽聴いてると体が動いちゃうのは自然の刹那だろう。
 音楽と体と心は一心同体だと思う。







 
 もうすぐ、八月だ。八月が来てしまう。







 去年、自分の誕生日を二日過ぎたところで母親が亡くなった。
 つまり、一回忌が来るわけだ。

 二年半に及ぶ看病の末、どこか重くて厚い曇り空で覆われたようなところに当方はいた。
 ここ一年、そこから復帰のために前向きに奮おうとして来た。
 忘れることは出来なくても、どうしても内省的がちになってしまう自分のコントロールにやきもきしてた。
 自分自身でどこかおかしくなっちゃっていたのは分かっていたから、二年半前の状態の自分、普通の精神状態の自分に戻るため頑張ってみた。
 2002年の12月の末に一応形ばかりは出来上がったこのサイトの更新、案だけは浮かんでいたコンテンツの作成、そしてイラストなんか描けなくなっていたので、なんとか勘を取り戻すようにした。
 イラストなんかで命は救えないなど思ってしまっていたら、イラストなんか描けないはずだ。
 当初、イラストを描き始めたのはイラストから来る「笑い」の元気を観てくれる人に与えたいと思って始めた。
 路上で笑ってくれる人を見てると、やってて良かったとか心から思えたし、こちらも元気を頂いた。
 その本人が元気なんて何処にも無くなっていた。
 悲しみの淵に居るのに、どうやって人を楽しませるかなんて分からなくなっていた。
 何をするにも、訳の分からないところで涙が出てきて立てなくなったり、イラスト自体にも虚しさを感じた。
 とにかく止まること無く出てくる涙をどう止めていいかも分からなかった。数は減ったが今でも止まらないときがある。
 理不尽な話がいっぱいありすぎて、助けてあげれなくて、悔しくて。
 親戚も同県内におらずに、当方は一人っ子だし、個室になってからは父親と二人変わりばんこで寝泊りした。とにかく来る日も来る日も、保障の無い期待にかけて病室に通っていたけど、助けてあげることは出来なかった。








 もうすぐ一年だ、何もかも幕が降りてあれから一年だ。
 葬式は葬式で泣き崩れたが、最後に頼まれていたことがあった。
 母親自身から頼まれていたことがあった。
 「葬儀で流して欲しい音楽がある」と以前伝えられていた。
 まだ、癌細胞が脳の方に回って行なくて、手も足も口も母親の意思で動かせていた頃だ。全然こんなことになるようには思えず、どこが病気なんだろうと思えたほどだ。髪の毛は抗がん剤で無くなっていたが。
 そういえば、その頭を隠したいと室内でかぶるバンダナと、外用の帽子を動けた頃は一緒に探しにいったこともある。





 入院し始めてから、退屈だろうと。MDプレイヤーを探して買ってあげた。
 一応国立病院だがそんなに娯楽があるわけではない。日中の楽しみといったら、他の患者との会話かテレビぐらいのものだ。
 ラジオも持っていた気がする。
 しかしMDに入れる音楽。母親の好みの音楽がよく把握してなかった。
 とりあえず、好きなのは分かっていた石原裕次郎や寺尾聰や内山田洋とクール・ファイブ などBESTCDをレンタル屋で探してきてMDに落とした。
 たいそう喜んでくれたが、MDを指して、中のCDの出し方が分からないと聞かされたときは少し笑った。
 使い方を教えたが、パソコンで大きな文字で図解入りでA4にプリントしたもの改めて作って渡した。初めから付いてた説明書を見てはこんな小さな文字の物は読まないだろうと思ったからだ。どこが再生ボタンでストップで、どれで次に行くか、どうやって充電するか分かりやすくしたつもりだ。


 それからMDでよく音楽を聴くようになったのか、時々唄っているというのを他の患者さんから聞いた。

 リクエストも来るようになって、菅原洋一や60年代のアメリカのポップスなどのCDも探してMDに落とした。曲名が分からなかったり、歌手名が出てこなかったりしたのも、あるだけの当方の知識とネットで探して突き止めて、またレンタル屋でCDを探した。
 当方も懐かしめのオムニバスCDが世の中にたくさんあることが分かったので、どんどんMDに落として行った。だんだん母親の好みが分かるようにもなって来ていたかもしれない。
 日本歌謡の歴史を追うようにCDを探してはMDに落として渡す作業が行われた。
 MDに歌手名を書いたものだけで分かりづらいだろうと、A4用紙に曲名、順、歌手名などをパソコンで処理して書いた。さっと分かりやすいように、MDには歌詞カードからなどから取った歌手の写真をMDに貼り、その曲名表に同じものを載せ、どのプリントが、どのMDのか分かりやすいようにした。絵が一番分かりやすいと思ったからだ。
 お気に入りでうろ覚えで歌っていたものには、文字を大きくして歌詞カードもプリントした。歌詞カードを目で追って唄うってことがなんだか体にいいような気がした。とりあえず、唄うってことが。
 わざと元気のいい曲を選ぼうと、ピンクレディなんかもMDに落とした。勢いのある曲の方がなんだか体に勢いが生まれそうな気がしたからだ。好きなのも知っていたしツイストなどもMDに落とした。
 そして、極めつけがシャネルズことラッツ&スターだ、BESTCD自体を当方が所有していたので、MDに落とすのが遅すぎたくらいだ。「め組の人」などは一緒に何回も「めっ」と言ってた。リピート再生の仕方を聞かれたのもその頃だ。プリントに大きな字で書いてあったのに。
 それ繋がりで鈴木雅之のBESTなどもMDに落としてあげた。これもかなりヒットだった、らしくかなり気に入ってくれた。
 歌詞カードも全曲プリントした。
 元気のいい曲を聞かせて唄ってくれると、元気になるような気がした。
 時々、しっとりと菅原洋一の「ラスト・ダンスは私に」や「愛の讃歌」のを繰り返し唄っていた。母は唄がうまくなっていたかもしれない。曲名集より、歌詞カードをプリントしたものの方が圧倒的に多くなっていた。
 そんなプリントが何十枚にもなった。











 それから一時期退院して、なんだかもう大丈夫だろうという感じになっていた。
 癌細胞は完璧に消せないけど、大きくならないように治療して、長い時間をかけて、つまり普通の生活をして癌と共存して生きていく形だ。
 とりあえず、入院しなくていいということに母親は喜んだ。
 病院に入院したがる人はあまりいないが当方も喜んだ。

 家でもMDを聞くようになった。


 その頃、もう自分の人生を再スタートしようと当方は住まないままで家賃を払っていた京都のマンションを引き払って、仕事を本格的にしようと東京に家を探した。そして東京で住処を見つけ、ごちゃごちゃしているところに、母親が倒れて救急車で運ばれたことを知らせる電話があった。


 実家に帰ると、母親の病室は個室だった。
 当方の知っている、どこに癌があるんだかといった感じの母親ではなくなっていた。
 詳しくは言いたくないが、とりあえず脳に行った癌細胞のせいで手足や口が不自由になっていた。
 そして脳を圧迫されているのか、どこか別の意味で母親がおかしい。
 母親なんだが、どこか別人のようになっていた。
 当方のことが分かるかどうかも分からなかった。


 それから落ち着きを取り戻したが、医者には5月いっぱいと宣告された。

 涙が止まらない日々が続いた。
 母親は当方のことが誰だか分かってないときがたまに出だしたが、こちらは母親は母親だ。
 ベッドで寝たきりで身動きが取れなくなっていたし、テレビを付けてもどこを向いているか分からない。
 目を開けているのがしんどいという。
 神経が押されて、目にきている。
 会話はなり立つときは全然成り立つし、ほんのたまに成り立たなかった。
 それでも、どうにか元気付けたくて、いろいろ話しかけたり、さすったり出来るだけやってみた。毎日、寝泊りするようにもした。一人で暗い個室で寝るのも不憫だ。

 こんな状態で聴くことが無くなり、もう紙袋で眠っていたMDや束のプリントを取り出した。元気付けたかった。元気付ける手段を模索していた。
 さすがにプリントは読めないが、音楽ならいいだろう。
 特にお気に入りの曲は分かっていた。指が上手に使えなくなっていたので、当方がMDプレイヤーの音量などに気を使いながら再生した菅原洋一を聞かせたところ。
 唄ってくれだした。
 本当に聞き入って唄ってくれた。
 それだけなのに涙が止まらなかった。
 気持ちよさそうに、また唄ってくれる母親が嬉しかった。
 脳を癌細胞に圧されて様々な記憶が思い出し難くなっていても、好きな歌の歌詞やメロディは覚えていたみたいで、個室で気持ち良さそうに歌ってくれた。

 それから、毎日またMDを聞かせる日々が始まった。










 唄っている母親を見てると、体から命の炎のようなものが噴出しているようにも見えた。
 元気だよ、元気だよと。
 そう、元気じゃないと歌なんか唄えるもんか。
 好きな音楽を唄ってもっと元気になってもらいたかった。
 ラッツアンドスターを聴かせているときに、「この人たち歌うまいね〜、だれ?」と言われたときは、やはり何処か迫って来ている現実が悲しくなった。
 それでもまだ「めっ」とか言ってるのが嬉しかったりした。


 菅原洋一は本当によく聞いた。母にどんな思い出があるのかなんて、最後まで聞けなかったけど、ゆったりとした曲を笑顔を浮かべて聴いてたのを思い出す。

 母の好みも分かってしまっていたし、こちらも歌謡曲などの知識も深くなっていたので、あらたに好きそうなMDも落としていった。
 誰の何の曲かなんて、どうでもいい。母親が少しでも、楽しそうにしてくれるなら。
 こんな個室で、目を一日中つむったままなんて楽しいわけないじゃん。
 せめて好きな音楽でも聴いてよ。



 でもだんだん、顔の表情も乏しくなり、歌声も出なくなった。そんな日が続いてしまった。












 医者の期待を裏切り、母親は八月まで生き抜いた。
 なにが五月だ。ざまあみろ。





 まだ、集団の病室のころ、まだ元気だったころ。
 MDプレイヤーを渡して、しばらくして、MDのリクエストが来だしたころだ。

 好きなテレビ番組の話になった。
 そして、「世界遺産」とうい番組の話になった。詳しくは省くが、そのテーマ曲がお気に入りらしい。

 ではと、探しに回った。しかし世界遺産のサントラが見付からなくて、しょうがないのでDVDから、そこから音源を取ってきかせた。
 自分のなかで完璧な仕事が出来なくて申し訳なかった。音は悪いし、ナレーションもかぶっている。

 後日、テレビ曲集みたいなコンセプトアルバムに表題曲が含まれていることに気付いて、さっそくMDで聴かせた。歌詞などはないから鼻歌で唄って、本当にいい曲ねと言っていた。


 すると、自分の葬儀の時に流して欲しいと言う。
 そんな日は来ないと言いたくて笑った。




 それから個室になってから、目を使えない状態になっていたので、「世界遺産」のDVDの音源をまるまるMDに落とした。
 映像は見えないけど、ナレーションや現地の音で番組は楽しめるだろうと。
 母親は楽しそうに聞いていた。滝が流れるんだってとか時々当方にも教えてくれた。

 このDVDだって、一時退院したときに母親が嬉しそうに買ったものなのに、見せてあげることが出来なくて申し訳なかった。


 そして、一年ちょっと前の葬儀の際、「世界遺産」の表題曲を流した。
 母親との約束通りだ。
 ちゃんと聞こえていたかな。



 母親の音楽の趣味は誰も正確に分からないだろう。でも僕だけは把握したつもりだ。もしいつか、どこかで、どこかの世界で、また母親と出会えた時に「あの曲なんっだたっけ?」って母親に聞かれてもすぐ答えてあげれるよ。
 
 とてもじゃないけど、あの頃たくさん作ったMDもプリントもまだ触れないんだ。持って行って欲しかったな。持って行ったのかな。MDプレイヤーの使い方はプリントに書いてあるから。
 また、どこかで会ったときは教えてあげるけど。

 僕は聴きたくない曲がたくさん増えてしまったよ。

 またいつ会えるか分からない。
 いつ会えるんだろう。
 これから何十年も先になっちゃうのかな。正直嫌だよ。


 ときどきそっちへの行き方が知りたくなるけど、もう一人の自分が止めるんだ。


 助けてあげれなくてごめんなさい。



 八月が来るんだ。

 あなたの誕生日が来るんだ。






 
 

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